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トップページ気象予報士合格体験記(25周年特別復刻版)
   
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2025年3月22日、わぴちゃんが気象予報士になってから
25周年の記念日を迎えることができました。

その記念事業の一環として、
当ホームページ開設初期の頃にアップしていた
「予報士合格体験記」を再公開いたします。

この予報士合格体験記は、わぴちゃんが
気象予報士試験に合格するまでの道のりを記したもので、
2003年6月ごろに執筆したものです。

原則として、当時の原文をそのまま活かしつつ、
多少の修正を加えた上で公開します。
ちょっと長いですがぜひ読んでいただけるとうれしいです。

←その1へ
 さて、話を元に戻します。わぴちゃんは、勉強の計画をびっしり表にまとめてノルマのように自分にプレッシャーをかけて学習するのがなぜか好きでした。それは今でも変わっていません。ただ、昔の場合は、ゆとりがなかったような気がします。

 かなりがちがちの計画を立てているため、ちょっとでも体調を崩すと大幅に遅れてしまうのです。そして、それを取り戻そうとしてまたさらに必死をこいて勉強をする、の繰り返しでした。なにせ、その日に勉強するページ数まで決めていましたから。。

 (例)
 ○月×日 数学U 定積分 189〜195ページ
 一般気象学 ベナール型対流 203〜208ページ
 高校入試対策  国語 105〜130ページ

1日分の勉強量もかなりのものだったと思います。
繰り返し書きますが、今では絶対できません(笑)

このゆとりのない勉強方法は、当時のわぴちゃんの心理状態をそのまま反映していたと思います。不安で学校に行くことだけでいっぱいいっぱいなのに、受験勉強によるさらなる重圧がかかっていました。これは、ある日突然爆発しました…

まだ、記憶に新しい長野オリンピックの開会式が行われた日のことです。朝から、思いパニック発作に苦しめられ、身動きが取れなくなっていました。学校に行かなきゃと思えば思うほど、動悸などの症状はますます激しくなって、つらさのあまり涙がにじんできます。

 「急にどうしたのかなぁ?」

そう思いながら、部屋でじっとしていることにしました。もちろん、学校に連絡は入れていません。だから、気分が落ち着くのを待つことにしました。

ベットに横になりながら、長野オリンピックの開会式をボーっと見ていました。子どもたちが踊っています。一生懸命歌っています。自分も負けてはいられないと思いながら、でも、激しい不安で身動きできないというふがいなさを噛みしめていました。

そして、聖火が入場しました。地雷除去に携わり、片足を失ったクリス・ムーンさんがこどもたちの「明日こそ、子どもたちが…」の元気な歌声とともに入場しました。これを見て、すごく感銘したのを覚えています。片足がなくなってもこんなに一生懸命がんばっている人がいるのに五体満足なわぴちゃんは何でこんなに情けないんだろう。

そう思ったら、いても立ってもいられなくなりました。かばんを背負って、パニック発作から来る症状を圧して、学校に向かったのです。頭の中では、開会式のテーマソングの歌詞だけが流れていました。ただ、体調悪いのには変わりなく、普段なら15分で学校に着くところを1時間近くかけて登校したのを覚えています。

学校は静かでした。昼休みが終わって5時間目が始まっていたのです。わぴちゃんは、そっとドアーをのぞきこみました。途端に、緊張が体の中をさーっと走って、気分が悪くなって座り込んでしまいました。それを見た、担任の先生が、授業を中断して、わぴちゃんのところにやってきました。

 「絶不調??無理しなくていいから今日はゆっくり休みな。」

わぴちゃんは、おとなしくうなづくと、先生に挨拶をして帰りました。

 「もっと強くなりたいなー」

帰り際でも、「明日こそ、子どもたちが…」の歌詞が頭から離れません。そしてなぜか、どこからか24時間TVのテーマソング「サライ」が聞こえてきました。自分勝手にも、わぴちゃんを応援しているように聞こえてしまいました。でもそれで、少し気分が落ち着いたような気がしました。

再びベットにもぐりこんで、ラジカセに適当にカセットテープを入れて、音楽を聴きながら静かにしていました。そういえば、6年生の頃、パニック発作で1週間、1日中泣き続けていたのを思い出しました。

また、病気が再発したのかな…

そんな不安さえも襲ってきました。カセットテープの中に、6年生のときパニック発作の症状でつらかった時に聞いていた曲が入っていて次々流れてきました。

これが、わぴちゃんの涙腺を激しく刺激しました。涙が止まらなくなってしまったのです。2時間くらい泣いていたと思います。ふと気が付くと、体が軽くなって、朝からずっと続いていた激しい症状が治まりました。

気分が落ち着いたわぴちゃんは、もう少し休んでいればいいのに、起き出して、なんと、勉強を始めました。よっぽど、気象予報士試験に対する情熱があったんでしょうね。そのまま、体調は回復して、翌日からは通常通りの生活に戻りました。

でも、まずは高校入試を乗り切らなくちゃ…
と言うことで、気象予報士試験勉強に並行して、高校入試対策にもさらに力を入れていきました。

ところでそ高校入試当日、なんと、わぴちゃんは風邪を引いて熱を出してしまったんです。でも、わぴちゃんを心配した担任の先生が車で迎えに来てくれて、さらに、会場まで送ってくれたのです。そのおかげで、無事試験を受けることができて、合格を果たしました。今となっては、感謝の限りです。

さて、ノルマがひとつ消えました。あとは、気象予報士試験に向けて全力で勉強ができます。ところが、もうひとつの障壁が待っていました。

気象予報士試験の会場は東京で、会場まで電車で行かなければならないのです。
わぴちゃんは、パニック障害のせいで、遠くまで外出することができません。なぜって、パニック発作が起きたらどうしようと考えただけで怖かったからです。しかも、わぴちゃんの町には鉄道が走っていないため、切符の買い方すら知らなかったんです。

そこで、行動療法でそれを克服することにしました。

まず、電車に乗って東京まで行って帰ってくる練習をしました。
電車に乗り込むと、不安が襲ってきます。それでも、「自分は強い」と言い聞かせて、乗換えまでの40分間を座って静かに過ごしました。この頃は、まだ鉄道に興味がなかったどころか、切符の買い方もわからず、駅員さんに頼りっぱなしでした。きちんと教えてくださって当時の駅員さんには感謝の気持ちでいっぱいです。

目的地まで、「東武鉄道」−「JR東日本」−「営団地下鉄」と、3つの会社線を乗り換えるのですが、切符を買うだけで一苦労だし、何番線にまわってよいのかさえわかりませんでした。

柏駅に着いて、JR常磐線に乗り換えました。このとき、電車発車時にJR東日本はメロディーを鳴らすことに気がついたのです。これがおもしろくて、不安が飛んでしまいました。各駅でいろいろなメロディーが聴けて、だんだん「発車メロディー」にのめりこんでいくようになりました。

JR区間は、ドア付近でメロディーを聴くために耳を傾けていました。それから、地下鉄に乗り換えました。1駅区間だったのですが、都会って感じがして、非常に新鮮だったのを覚えています。

地下鉄を降りて、東京の街中を少し歩いてこの日は帰りました。JR区間はたとえ空いててもドア付近に立って、「発車メロディー」を聞いていました。

 「電車に乗って歩くのは意外に楽しいな」

この日以降も何度も東京に行く練習をしましたが、不安に襲われることはなくなり、楽しい気持ちで旅ができました。

さて、高校に入学して、受験勉強も一段落したので、8月に控えた気象予報士試験の受験に向けて実技対策として通信講座を受講することにしました。1日2時間のペースで、学科試験の復習をしたあと、実技試験の添削問題をやってみました。

 「雲Aの成因について図1・図2・図4を用いて100字程度で述べよ。」
 「・・・・・なにこれ?」

正直言ってびっくりしました。実技試験が筆記だとはわかっていたのですが、答える量が莫大に多いのです。しかも、自分の言葉でまとめるいわゆる小論文形式や、電卓を使わないで複雑な計算をこなす計算問題ばかりで、90分では足りないくらいでした。

それでも、帰ってきた添削問題の評価が「A」や「B」だったので、そんなに実技の勉強をしなかったんです。これが、この後悲惨な結果になろうとは考えてもいませんでした。

6月だったと思います。第10回気象予報士試験の受験申し込みをしました。そして、8月に受験票が届きました。

 「いよいよ受験!がんばるぞぉ〜」

お盆は気仙沼に行っていましたが、ずっと試験勉強をしていました。

そして試験当日…
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 2025年8月31日最終更新

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